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満蒙開拓平和記念館に行ってきました(その①)

満蒙開拓平和記念館に行ってきました(その①)

1 長野県阿智村へ

先日、ちょっとお出かけしてきました。目的地は長野県。諏訪から中央構造線に沿って南にドライブしていくと、右手側には中央アルプス、左手側には南アルプスの雄大な山並みが見えてきます。行きついた先は、信州の南にある小さな村、阿智村です。ここには、満蒙開拓平和記念館という小さな記念館があります。戦時下で多くの犠牲を出した満蒙開拓の歴史を語り継ぐために、約10年前に作られました。

2 満蒙開拓団とは

1931年、満州に駐留していた日本陸軍部隊であった関東軍による満州事変が起こります。関東軍は満州地域の主要都市を制圧していき、翌1932年には日本の傀儡(かいらい)国家である「満州国」が建国されました。広大な土地を開拓して食糧増産をはかるとともに、ソ連国境の防備を固めるためにも、旧満州地域の人員供給は喫緊の課題となっていました。

一方、当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け、深刻な経済不況に陥っていました。当時の日本の主要輸出品目は生糸でしたが、輸出先の米国で生糸の需要が急激に縮小し、生糸が売れなくなってしまいました。生糸価格は大暴落し、生糸の生産を支えていた農村の経済は大打撃を受けます。農村は収入源を絶たれて貧困状態となり、飢餓が発生し身売りが横行するなどしました。このような状況に、当時の政府は解決策を見いだせずにいました。

そこで、政府は、農村地域の人減らしと満州国の支配強化の目的で、貧農から人員を招集して満蒙地域に移民を送り出すことを計画します。満州地域と内モンゴル地域の一部を含んでいたため、当時の日本では当該地域を「満蒙」と呼んでいました。満蒙開拓団は、まさに「国策」となったのです。

次回へ続く・・・

(弁護士 深谷直史)

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