沖縄平和記念資料館に行ってきました

 今年も忙しくて大変な思いをしましたが、休暇を取って沖縄に行ってきました。

 高校時代の修学旅行以来の沖縄なので、約10年ぶりの訪問です。

 せっかく沖縄に来たので、沖縄県平和祈念資料館に行きました。修学旅行の時にも訪問しましたが、その時は滞在時間が1時間ほどしかなく、展示をじっくり見ることができませんでした。今回は半日時間を取っての訪問です。

 資料館があるのは、沖縄本島の南端である糸満市摩文仁、那覇から南にバスで1時間ほど移動したところにあります。県民の4人に1人が犠牲になった悲惨な戦争はなぜ起こったのか、米軍基地など今なお残る戦争の爪痕についても展示がされています。

 沖縄戦を凄惨なものにした一つの要因として、当時の日本人の琉球に対する差別意識があります。沖縄にはもともと琉球王国という国が栄えていましたが、江戸期の薩摩藩による武力侵攻以降は日本による支配が強まり、明治期に「琉球処分」が行われ、琉球王国は消滅し沖縄県となりました。沖縄では砂糖の原料になるサトウキビが今でも多くつくられていますが、当時貴重だったサトウキビに目を付けた薩摩藩は、米の作付面積を減らしてまで琉球でサトウキビを作らせました。その結果、薩摩藩は貿易で潤う一方、沖縄で暮らす人々の暮らしは貧しいものでした。

 やがて明治維新が起こると、政府は沖縄の同化政策を進めていくことになります。ウチナーグチ(琉球方言)を使った人に対する懲罰として方言札という札を首から下げさせたり、琉球風の苗字を日本風に改名させたり(島袋→島田、我如古→金子、など)して、支配を強めていくことになります。なお、ウチナーグチの使用禁止については、当時の言語学者からも強い批判があったようです。当時の軍規にも、「琉球語を使ったものは処分せよ」などと書かれるなど、日本政府の琉球文化に対する差別意識が強くうかがえます。

 一方で、アジア太平洋戦争末期には、沖縄が本土防衛の最終拠点とされました。無謀な戦争の結果で本土も危ない状況になったため、沖縄は「捨て石」にされたのです。

 沖縄では地上戦が行われ、県民の4人に1人が犠牲になりました。生き残った人々も、精神を病むなどしました。沖縄戦では、「鉄の暴風」と呼ばれるほどのアメリカ軍による砲撃や、火炎放射器などを使用して、徹底的に沖縄を侵攻しました。本来なら沖縄を守るはずの日本軍も、一般市民をスパイと疑って処刑したり、物資補給が十分でなかったことから、市民から住居や財産を奪ったりすることもしました。当時の日本軍は「友軍」と呼ばせていたのに、ひどい振る舞いです。ここでも、琉球に対する差別意識が垣間見えます。

 そのほか、火炎放射器で焼かれた市民の写真や、泣く赤子を日本兵に殺された証言など、戦争の悲惨さを物語る展示がたくさんありました。

 皆さんも、ぜひ一度は立ち寄ってみてください。

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