憲法Caffè

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埼玉総合法律事務所
03月

満蒙開拓平和記念館に行ってきました(その②)

3 開拓団と阿智村
当時の南信州地域は養蚕がとても盛んで、恐慌の大打撃を受けていた地域でした。政府は小学校などに働きかけて、移民を募集しました。映画やポスターも作るなど、かなり手の込んだプロパガンダを敷きました。貧困に苦しんでいた農村では、「満蒙に行けば自分の土地が持てる。」、「満州の大沃野に行けば食うに困らない。」と、多くの人が満蒙へ移民に行くことになります。長野県全体で約3万7000人もの人が開拓団として海を渡りました。この数字は全国で1位であり、2位の山形県が約1万7000人であることに比しても、数が突出していることがわかります。中でも南信州の下伊那・飯田地域での開拓団は、長野県全体の約25%を占めていました。

4 様々な苦難
移民に渡った人もたくさんの苦難に遭います。開拓することになる農地や家屋は、現地の農家から奪ってきたものです。満蒙開拓団は現地人から反感を買い、抗日武装集団から襲われることもあったそうです。また、中国東北部は冬になると零下40度近くまで下がる厳寒地域です。厳しい環境にいながらも、遠い故郷を思い、力強く生きていきました。
しかし、突然の終戦を迎えることで、開拓団に更なる悲劇が起こります…(続く)

(弁護士 深谷直史)

満蒙開拓平和記念館に行ってきました(その①)

1 長野県阿智村へ

先日、ちょっとお出かけしてきました。目的地は長野県。諏訪から中央構造線に沿って南にドライブしていくと、右手側には中央アルプス、左手側には南アルプスの雄大な山並みが見えてきます。行きついた先は、信州の南にある小さな村、阿智村です。ここには、満蒙開拓平和記念館という小さな記念館があります。戦時下で多くの犠牲を出した満蒙開拓の歴史を語り継ぐために、約10年前に作られました。

2 満蒙開拓団とは

1931年、満州に駐留していた日本陸軍部隊であった関東軍による満州事変が起こります。関東軍は満州地域の主要都市を制圧していき、翌1932年には日本の傀儡(かいらい)国家である「満州国」が建国されました。広大な土地を開拓して食糧増産をはかるとともに、ソ連国境の防備を固めるためにも、旧満州地域の人員供給は喫緊の課題となっていました。

一方、当時の日本国内は世界恐慌のあおりを受け、深刻な経済不況に陥っていました。当時の日本の主要輸出品目は生糸でしたが、輸出先の米国で生糸の需要が急激に縮小し、生糸が売れなくなってしまいました。生糸価格は大暴落し、生糸の生産を支えていた農村の経済は大打撃を受けます。農村は収入源を絶たれて貧困状態となり、飢餓が発生し身売りが横行するなどしました。このような状況に、当時の政府は解決策を見いだせずにいました。

そこで、政府は、農村地域の人減らしと満州国の支配強化の目的で、貧農から人員を招集して満蒙地域に移民を送り出すことを計画します。満州地域と内モンゴル地域の一部を含んでいたため、当時の日本では当該地域を「満蒙」と呼んでいました。満蒙開拓団は、まさに「国策」となったのです。

次回へ続く・・・

(弁護士 深谷直史)

3月10日は東京大空襲の日です。

78年前の今日未明、東京の下町は大空襲をうけ10万人を超える市民が火にまかれて亡くなりました。
当時まだ小さな子どもだった児童書の作家の叔母が、夜なのに真っ赤に染まる空をきれいな夕焼けだと思った
と話してくれたことがありました。
家族を失った方、離ればなれになった方、ご自身の出生の詳細も名前もわからない小さな子どももたくさんいたでしょう。
戦後の長い時間を、どんな思いで、どんな人生を経ていらしたのでしょうか。
(事務局 松田)